ナッサウ家(Haus Nassau)は、ドイツ西部のライン地方を発祥としたヨーロッパの貴族、王家。1代限りだが神聖ローマ皇帝も出した家系で、現在のオランダ王家であるオラニエ=ナッサウ家、ルクセンブルク大公家であるナッサウ=ヴァイルブルク家はともに同家の流れをくんでいる。
ライン川中流のナッサウに城を構えたナッサウ伯がその起こりであり、12世紀終わり頃に初代ナッサウ伯となったヴァルラム1世 (en) を祖とする。ヴァルラム1世の孫のヴァルラム2世 (en) とオットー1世 (en) 以降、ナッサウ家はヴァルラム系、オットー系の2つの系統に分かれる。
ヴァルラム系(ナッサウ=ヴァイルブルク家) [編集]
ヴァルラム2世の子アドルフは、1292年に神聖ローマ皇帝(ドイツ王)に選出されたが1代限りに終わり、以後アドルフの家系はドイツの小貴族として続いた。アドルフの孫ヨハン1世 (en) は1355年にヴァイルブルク伯となったため、この家系はナッサウ=ヴァイルブルク家と呼ばれる。1806年にナッサウ公国が成立し、ドイツ連邦時代までナッサウ=ヴァイルブルク家のフリードリヒ・アウグスト (de) 、ヴィルヘルム、アドルフの3代のナッサウ公が治めた。普墺戦争でオーストリア方についたため、1866年にナッサウ公国はプロイセン王国に併合され、ヘッセン=ナッサウ州となって姿を消した。しかし1890年、アドルフはルクセンブルク大公に迎えられ、以後その子孫が大公家として続いている。
オットー系(オラニエ=ナッサウ家など) [編集]
オットー1世の子孫は14世紀から15世紀にかけて、主に婚姻によってネーデルラントに領地を増やし、ブレダに居城を構えて拠点とした。オットー系ナッサウ家はブルゴーニュ公に仕えて勢力を伸ばし、ネーデルラントで随一と呼ばれる名門となった。16世紀初めにはヘンドリック3世・ファン・ナッサウ=ブレダ (en) がブルゴーニュ公シャルル(後の神聖ローマ皇帝カール5世)からホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州の総督に任命されている。
ヘンドリック3世と弟のナッサウ=ディレンブルク伯ヴィルヘルム (en) はそれぞれ、ネーデルラントを含むライン左岸の領地と、ナッサウ家伝来のライン右岸の領地を相続していた。ヘンドリック3世の息子ルネ・ド・シャロンは父の遺領に加えて母方の叔父から南フランスのオランジュ公領も相続していたが、1544年に戦死した。ルネに跡継ぎがいなかったため、ヴィルヘルム1世の長男ウィレムは、従兄ルネの遺したネーデルラントの所領とオランジュ公領とを11歳で相続する。以後、ウィレムはオラニエ公ウィレム1世を称し(オラニエはオランジュのオランダ語名)、その家系はオラニエ=ナッサウ家と呼ばれる。ナッサウ家の勢力拡大を嫌った皇帝カール5世の意向により、ナッサウ=ディレンブルク伯の称号と所領は父からウィレムの弟ヨハン6世に相続された。ウィレム1世は八十年戦争において中心的指導者となり、ネーデルラント連邦共和国となる北部ネーデルラント各州の議会から総督に任じられたが、弟ヨハンもまた兄に従い、1州の総督となっている。以後、オラニエ=ナッサウ家と分家であるヨハンの家系ナッサウ=ディーツ家は、オランダ各州の総督をほとんど世襲した。その他の主な分家としてナッサウ=ジーゲン家(ヨハン6世の次男ヨハン7世の家系)、ナッサウ=グリムハイゼン家(ウィレム1世の庶子ユスティヌス・ファン・ナッサウ (en) の家系)などがある。
ウィレム1世の曾孫でオランダ総督とイングランド王・スコットランド王を兼ねたウィレム3世(ウィリアム3世)が後継者なくして死去すると、ヨハン6世の玄孫でオラニエ=ナッサウ家の血も引くナッサウ=ディーツ家のヨハン・ウィレム・フリーゾがオラニエ公を継承した。以後オラニエ=ナッサウ家は現在までヨハン・ウィレム・フリーゾの子孫によって続いている。
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