三島は、檄文で、
自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった
と訴えた。そして、「政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう」と説き、前述のように前年の国際反戦デーの際に治安出動がおこなわれなかったことに憤った。
ルント シャイ インタン トラム バプ 冬の枝 ハニー はしかみ スタッ ロルプロ トザウルス マリオ ロール ライカ カースト 花月 フェンシ モリブデン マジック おんかま シッキ サンドバ ニング ワラント サウスポー ミール きんしゃ ブランチ プロジ タッグ れんおん シルク チャカレ ヒュンダ くわのじつ ストラ 空を見 シャー リチャ 黄砂 オープン オリンズ ジブチ わどまり あずきいろ パリティ ビーフン コクト ひしがた バカラ
檄文では、
諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。…アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば…自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう
とも警告した。
三島は、死の年の1月19日、21日、22日に『読売新聞』に「『変革の思想』とは―道理の実現」という文章を寄せている。そこには、檄文や演説では言い尽くされていなかった三島の自衛隊に対する考えが余すところなく書かれている。
この中で三島は、「改憲の可能性は右からのクーデターか、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い」と指摘。そして、今の日本は「統治的国家」(行政権の主体)と「祭祀的国家」(国民精神の主体)の二極分化を起こしていると指摘し、国民に対しそのどちらかに忠誠を誓うかを問うた。それに合わせて、"現憲法下で"という条件付であるが、
航空自衛隊の9割、海上自衛隊の7割、陸上自衛隊の1割で国連警察予備軍を編成し、対直接侵略を主任務とすること、
陸上自衛隊の9割、海上自衛隊の3割、航空自衛隊の1割で国土防衛軍を編成し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。その根本理念は祭祀国家の長としての天皇への忠誠である。対間接侵略を主任務とし、治安出動も行う、
という提案をおこなっている。国土防衛軍には多数の民兵が含まれるとし、楯の会はそのパイオニアであると主張している。
『文化防衛論』では、天皇が自衛隊に対し儀杖を受けることと連隊旗を下賜することを提言し、自衛隊の名誉回復を主張していた。
このように、三島が自衛隊に望んでいたことは、
自衛隊の名誉回復
日米安保体制からの脱却と自主防衛
の2点に集約される。
三島の天皇論
一方、三島の天皇への態度は複雑である。
三島は、最後の日の演説や檄文などでは「歴史と文化の伝統の中心」、「祭祀国家の長」として天皇を絶対視していたが、『文化防衛論』においては「文化概念としての天皇」という概念を主張し、天皇は、宗教的で、神聖な、インパーソナルな存在であるべきだと主張した。
インパーソナルな天皇像を希求するがゆえ、晩年は「天皇というものを『現状肯定の象徴』にするのは絶対にいやだ」[11]などと発言して、天皇イコール「現状否定の象徴」「革命原理」との位置づけを頻繁に試みるようになる。その流れから、戦後の象徴天皇制を「週刊誌天皇制」として唾棄し、「国民に親しまれる天皇制」のイメージ作りに多大な影響力を及ぼした小泉信三を「大逆臣」と呼んで痛罵するなどした。
特に昭和天皇に対しては、「私はむしろ(昭和)天皇個人に対してある意味反感を持っている」と発言している[12]。
その「反感」とは、三島によれば、昭和天皇が、
忠臣たるべき2・26事件の反乱将校らを厳重に処罰させたこと
いわゆる『人間宣言』により、「神としての天皇のために死んだ」特攻隊隊員らを裏切ったこと
によるものである。
この昭和天皇に対する否定的な感情は、2・26事件三部作の最後を飾る「英霊の聲」で端的に表されている。三島は、2・26事件の反乱将校と特攻隊隊員の霊に「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」と、ほとんど呪詛に近い言葉を語らせている。
高橋睦郎によると、三島は昭和天皇について「彼にはエロティシズムを感じない、あんな老人のために死ぬわけにはいかない」、当時の人気歌手を引き合いに出して「三田明が天皇だったらいつでも死ぬ」と発言したことがあったという[13]。
もっとも、その一方で、旧制学習院高等科を首席で卒業した際に昭和天皇から恩賜の銀時計を拝受したことを感慨深く回想しており、1969年5月におこなわれた東大全共闘との討論集会においても、学習院高等科の卒業式に臨席した昭和天皇が「3時間(の式の間)木像のように微動だにしなかった」御姿が大変ご立派であったと、敬意を表することも一再ならずあった。同じ討論集会で三島は「君らが一言『天皇陛下万歳』と叫んでくれれば俺は喜んで君らと手をつなぐ(共闘する)のに、いつまで経っても言ってくれないからお互い『殺す、殺す』と言っているだけさ」と言い放ち、全共闘学生を挑発した。
三島の天皇主義的な側面を捉えて、俗に三島を右翼と位置づける傾向がいまだに根強いが、生前には『風流夢譚』事件で右翼の攻撃対象となるなど、必ずしも既存右翼と軌を一にしていたわけではない(もっとも、1965年頃に毛呂清輝らとの交流があったことが、書簡等で明らかとなっている)。しかしその右翼陣営も、三島自決後は三島をみずからの模範として崇敬(もしくは政治利用)するようになる。